現実とはたいていの場合、うまい物語になりそこなった物語

父と母、年老いたやさしい祖母、気心の知れた兄、岡本家の長女であり妹である監督。『ディスタンス』は岡本監督が、北海道に暮らす自らの家族の姿を記録したセルフ・ドキュメンタリーだ。

彼女が幼いころに撮影された思い出のフィルムが時おり残像のように挟み込まれながら、カメラは淡々と現在を映し出す。今、かつて一家だった岡本家は、全員がばらばらに暮らしている。そこにはそれぞれの痛みがあり、憎しみがあり、別れがあり、自立があった。幼すぎた彼女は、それを現実として知ってはいても、そうならなくてはならなかった時間の積み重ねを実感として知らない。自分から一番近い場所にいたはずの人たちは、あの幸福に思えた時間との距離をどう考えているのだろう。それは彼女にとっての、一番愛しいはずなのに一番素直に向き合えずにいた人たちとの対話でもあると思えた。
たいがいの家族なんて、そういうものだ。家族だから簡単に本音で語り合えるなんて、そんな教科書みたいな人生はない。

いつだったか、ある写真家がこんなことを語っていた。
「電車のなかや街角で知らない人の顔を撮るときはかならず『撮りますよ』と断ってから撮る」
その前後にも発言があった。たしか、「そうすると相手は変に緊張したり、いい顔を作ったりする。それはその人の自然な態度からは一番遠いかもしれないけど、そのぎこちなく格好をつけた表情に、じつは一番隠しきれないその人そのものが見えるから」というような内容だったと思う。

岡本まな監督の『ディスタンス』を見て、ぼくはかつて聞いたその言葉を思い出した。 映画の冒頭、カメラを持って突然現れた監督に向かって、父はおどける。その場面を見た瞬間、あの写真家の言葉が頭に浮かんだのだ。そして、「ああ、監督は父と本当の話がしたかったんだな」と思った。カメラを意識しながら陽気にふるまう父を撮り続けるカメラに、彼女の監督としての覚悟を感じた。
でも、この映画は、一家が散り散りになった理由を無慈悲に暴き立てるような作品でもないし、もう一度つながりを取り戻すハッピーエンドをハナから画策していたような作品でもない。正直、戸惑いながら作られていたであろう部分も見受けられる。多くを語って、この映画をひとつの結論のある物語にして成立させてしまうことを躊躇もしている。だが、監督自身も本気で揺れているからこそ、思いがけないクライマックスが映画に訪れたのだと思う。その、あまりにもありふれた光景から浮かび上がってくる家族の真実に、ぼくは泣いた。

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劇中、岡本監督がかつて働いていた東京・阿佐ヶ谷のバーRojiを通じての友人であるバンド、ceroの「Orphans」や、敬愛するシンガー・ソングライター、ランタンパレードの楽曲が印象的に流れる。また、モータウンの大スターだったあるシンガーの歌も映画の重要な場面を司る。ただし、そのどれもが、とってつけたテーマ曲のような傲慢さで作品をまとめてしまうものではない。どの曲にも、このかつて家族だった愛すべき人々のそれぞれの心にそっと寄り添うまなざしがあり、遠くから彼らを見守っているようにも聞こえるのだ。
現実とはたいていの場合、うまい物語になりそこなった物語だ。そして、そういうできそこないの物語からしか語ることのできない本当の想いがある。『ディスタンス』を見終わったあとも、余韻のなかでしばらくそれを強く感じていた。

text by 松永良平
1968年熊本県出身。編集集団リズム&ペンシル所属。ライター。
著書インタビュー単行本「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「音楽マンガガイドブック」(編著/DU BOOKS)、テリー・サザーン「レッド・ダート・マリファナ」(翻訳/国書刊行会)。ceroのDVD『Obscures』ライナーノーツ寄稿など、音楽関係を中心にインタビュー/ライナーノーツ/論評などを手がける。